「口肛具譚」赤羽史亮、小泉圭理、松尾勘太

23/01/14[土]-23/02/12[日]
@ タリオンギャラリー
企画運営:タリオンギャラリー   エキシビション

微小な生物や菌糸がうごめくように、赤羽史亮の絵画は生々しく絵具を隆起させた有機的なマチエールで知られています。「世界は巨大な堆肥だ」という赤羽にとって、絵画平面は価値が反転する場所であり、外側と内側が裏返った人体でもあります。多様多様な筆触の連なりが這い回るその制作の過程によって生まれるのは、あらゆる生命の起点と終点が連鎖する根元的な矛盾の肯定と言えます。

画布が木枠に貼られ、そこに絵筆と絵具が突き立てられる現実を、小泉圭理は皮膚が骨にまとわりつくこと、また事物の交接のメタファーとして扱い、絵画の成り立ちを繰り返し咀嚼しながら制作してきました。棒切れの組み合わせや板のくり抜きから始まる小泉のシェイプドキャンバスの作品群は、人間的な生気を収容するための器か、あるいは身体そのものとして制作されています。

一貫して油彩と矩形のタブローを用いて、松尾勘太は具象による時空間を描き続けています。松尾が描く舞台設定のように限定された空間の拡がりと、そこで量感を伴いながら鈍く光る体躯や生命は、筆触による線描的な彫塑と触覚的な流動との結合による、視覚的欲望のレンダリングと言えます。その絵画は、見る者の網膜に瞬間的に現れずに、遅延して感覚や記憶に現れる持続的なスクリーンのように作用します。

本展は、物質の集合である人体と絵画がともに、物資以上のものとして見なされる契機のひとつとして、前と後ろが区別されうることに着目します。人間の身体における前後の有標性は、生物史における口と肛門の発生に遡りますが、それは消化器官を含む代謝の機構、つまり人間がひとつの管であることとと結びつきます。そして、絵画もまた前後を持つかぎりにおいて、ひとつの管でもあり得るでしょう。生の事実が投影された皮膜あるいはトンネルとしての絵画は、それが人体と同様に時間とともに朽ちることを捨象しない現実性において、有限な世界がなぜ限りなく存在するのかというリアリズムの問いに接近します。どうぞご期待ください。

会 場
タリオンギャラリー   > HP
住 所
豊島区目白2-2-1 B1F
電 話
03-5927-9858
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月火祝休廊